そもそも、エンターテイメントをはじめ、娯楽というものは、受け手が自分自身の価値観を肯定するために存在する。
娯楽とは、そのための手段のようなものだ。
作品を通じて私たちは、自身の中にある感情や価値観は正しいのだと認識(肯定)し、自身の価値観や人格を作り手と共有する。
それにより満足や充実感を得る。
「楽しい」とか「面白い」とかいう感覚は、その結果として生まれる副産物みたいなものだ。
しかし、そこで生まれるものは、単なる「楽しさ」だけではない。
大きなものとして、「自身の存在(価値観)が、他者や社会から認められる」という感覚がある。
これこそが、私たちにとって娯楽やエンタメと呼ばれるものがいかに重要であるかを示す大きな理由だ。
誰しもが持つであろう、周りから「認められない」歯がゆさや不満を解消するため、または、それゆえ悲しくなり際限なく沈みゆく気持ちを明るくするために私たちは、娯楽やエンタメをはじめとする他者の生み出した表現に頼るわけだ。頼る、もしくは「すがる」とも言えるか。
退屈な日常における清涼剤のような側面もある一方で、そこにはある種のセーフティーネットのような役目があることも、忘れてはならないだろう。
そう考えていくと、ある大事な問いに行き着く。
はたしてそこに努力は必要なのだろうか、という問いだ。
人も動物であるため、ある程度の環境適応力が備わっている。
変わりゆく環境やシステムに、その都度適応しなければ生きていくことが難しいからだ。
そう。
生きていれば、自分も他人も社会も時代も、ありとあらゆるものが変わりゆく。「変わることこそ、人間の本質だ」と言う人もいるが、いわば変化や適応は、他者との関わりのなかで生きる人々が生み出した知恵のようなものだろう。それ自体は何も悪いことではない。
がしかし、私たちが「変わる」ことを選択する、いや選択しなければいけない時の大部分は、自分からではなく、他者の影響で、いわば近い他者との関わり合いのなかで生じる。
それは良い意味では「愛」や「思いやり」という言葉で形容され、悪い意味では「優柔不断」と疎まれる。
つまり、私たちが変わるべき時、そこには必ず他者の存在があるということなのだ。
「変わる」というのは、多くの場合、自主的な行為ではなく受動的に周りから強制されるものである。
先にも書いたように、変わることは他者への愛や、他者への思いやりという面では美しく望ましいこととされているが、その裏には、「結局のところ、人はそう簡単には変われないし変わらない」という事実を孕んでいる。
言ってしまえば、変わることとは理想であり憧れであり、私たち一人一人がそれぞれに目指すべきもの。
例えばそう、道徳や倫理のようなものなのだ。
心に置いておくべきものというだけであり、究極的に身近なものではない。
にもかかわらず、「ダメだ、変わらなくちゃ」と自分を否定し辛くなったり、「変われないから」と悩み、もがき苦しんだりして、人は生きるのに迷い苦戦する。
そんなとき、「自分は自分で大切にしたいことがあり、周りは周りで大切にしたいことがある。それだけなんだ」「自分は自分、他人は他人。違っていて当たり前」と思えれば苦労しないのだが。
けれど多くの人が自分と他者との違いに悩み苦しむ。
そうやって生きている。
ここで話を戻すと。
そうしながら生きる人々の支えになるのが音楽などのエンタメであり、娯楽だ(趣味にしてもそうだろう)。
要は、日常のなかで私たちはただでさえ、変わることを要求されているのだから、娯楽において自分を変える必要なんて、そもそもないはずなのだ。
私たちはある場面では変わるし、ある場面では変わらない。
揺らぐ自分と揺らぐ他者との関係性のなかで、時に誰かを受け入れ、時に何かを捨てながら生きている。
そうやって揺らぎながら生きていくのが人間として自然だと思う。
だから、変わらなくていいんだ。
昨今の娯楽についていけないのは、懐古的になっているからではない。
「昔は良かった」と、流行りの価値観を否定してかかっているからではない。
受け入れられないものを無理して受け入れる必要はない。
それは「エンターテイメント」や「楽しみ」の定義に反している。
「受け入れられない」という感覚を、否定・批判ではなく、純粋な気持ちとして捉えたとき、受け入れられない理由は、肯定し残すべきものに変わる。
その先に、皆が喜ぶべき状況が生まれる可能性があるのなら、そういった意見はきちんと言っていくべきだ。
娯楽の存在理由や価値は、受け手が主導権を握るところからまず始まるのだから。
万人とまでいかなくとも、できる限り多くの受け手の価値観を肯定することができない娯楽に、存在する意味などない。
ある特定の集団にのみ働きかけるようなことは、その枠の「外」にいる人々にとっての楽しみを奪うことにつながる。
それが芸術ではなく商品であり娯楽だというなら、最低限守るべきはそれだろう。
思うに日本では、「ファンがつけばそれでオーケー」という考え方が当たり前らしい。
だが、本当にそれでいいのだろうか。
消費者が作品を通して得られる幸せな体験は、作品と自分という関係性のほかに、作品を通して多くの他者とつながることでこそ得られるのだということを、忘れないようにしたい。
娯楽とは、そのための手段のようなものだ。
作品を通じて私たちは、自身の中にある感情や価値観は正しいのだと認識(肯定)し、自身の価値観や人格を作り手と共有する。
それにより満足や充実感を得る。
「楽しい」とか「面白い」とかいう感覚は、その結果として生まれる副産物みたいなものだ。
しかし、そこで生まれるものは、単なる「楽しさ」だけではない。
大きなものとして、「自身の存在(価値観)が、他者や社会から認められる」という感覚がある。
これこそが、私たちにとって娯楽やエンタメと呼ばれるものがいかに重要であるかを示す大きな理由だ。
誰しもが持つであろう、周りから「認められない」歯がゆさや不満を解消するため、または、それゆえ悲しくなり際限なく沈みゆく気持ちを明るくするために私たちは、娯楽やエンタメをはじめとする他者の生み出した表現に頼るわけだ。頼る、もしくは「すがる」とも言えるか。
退屈な日常における清涼剤のような側面もある一方で、そこにはある種のセーフティーネットのような役目があることも、忘れてはならないだろう。
そう考えていくと、ある大事な問いに行き着く。
はたしてそこに努力は必要なのだろうか、という問いだ。
人も動物であるため、ある程度の環境適応力が備わっている。
変わりゆく環境やシステムに、その都度適応しなければ生きていくことが難しいからだ。
そう。
生きていれば、自分も他人も社会も時代も、ありとあらゆるものが変わりゆく。「変わることこそ、人間の本質だ」と言う人もいるが、いわば変化や適応は、他者との関わりのなかで生きる人々が生み出した知恵のようなものだろう。それ自体は何も悪いことではない。
がしかし、私たちが「変わる」ことを選択する、いや選択しなければいけない時の大部分は、自分からではなく、他者の影響で、いわば近い他者との関わり合いのなかで生じる。
それは良い意味では「愛」や「思いやり」という言葉で形容され、悪い意味では「優柔不断」と疎まれる。
つまり、私たちが変わるべき時、そこには必ず他者の存在があるということなのだ。
「変わる」というのは、多くの場合、自主的な行為ではなく受動的に周りから強制されるものである。
先にも書いたように、変わることは他者への愛や、他者への思いやりという面では美しく望ましいこととされているが、その裏には、「結局のところ、人はそう簡単には変われないし変わらない」という事実を孕んでいる。
言ってしまえば、変わることとは理想であり憧れであり、私たち一人一人がそれぞれに目指すべきもの。
例えばそう、道徳や倫理のようなものなのだ。
心に置いておくべきものというだけであり、究極的に身近なものではない。
にもかかわらず、「ダメだ、変わらなくちゃ」と自分を否定し辛くなったり、「変われないから」と悩み、もがき苦しんだりして、人は生きるのに迷い苦戦する。
そんなとき、「自分は自分で大切にしたいことがあり、周りは周りで大切にしたいことがある。それだけなんだ」「自分は自分、他人は他人。違っていて当たり前」と思えれば苦労しないのだが。
けれど多くの人が自分と他者との違いに悩み苦しむ。
そうやって生きている。
ここで話を戻すと。
そうしながら生きる人々の支えになるのが音楽などのエンタメであり、娯楽だ(趣味にしてもそうだろう)。
要は、日常のなかで私たちはただでさえ、変わることを要求されているのだから、娯楽において自分を変える必要なんて、そもそもないはずなのだ。
私たちはある場面では変わるし、ある場面では変わらない。
揺らぐ自分と揺らぐ他者との関係性のなかで、時に誰かを受け入れ、時に何かを捨てながら生きている。
そうやって揺らぎながら生きていくのが人間として自然だと思う。
だから、変わらなくていいんだ。
昨今の娯楽についていけないのは、懐古的になっているからではない。
「昔は良かった」と、流行りの価値観を否定してかかっているからではない。
受け入れられないものを無理して受け入れる必要はない。
それは「エンターテイメント」や「楽しみ」の定義に反している。
「受け入れられない」という感覚を、否定・批判ではなく、純粋な気持ちとして捉えたとき、受け入れられない理由は、肯定し残すべきものに変わる。
その先に、皆が喜ぶべき状況が生まれる可能性があるのなら、そういった意見はきちんと言っていくべきだ。
娯楽の存在理由や価値は、受け手が主導権を握るところからまず始まるのだから。
万人とまでいかなくとも、できる限り多くの受け手の価値観を肯定することができない娯楽に、存在する意味などない。
ある特定の集団にのみ働きかけるようなことは、その枠の「外」にいる人々にとっての楽しみを奪うことにつながる。
それが芸術ではなく商品であり娯楽だというなら、最低限守るべきはそれだろう。
思うに日本では、「ファンがつけばそれでオーケー」という考え方が当たり前らしい。
だが、本当にそれでいいのだろうか。
消費者が作品を通して得られる幸せな体験は、作品と自分という関係性のほかに、作品を通して多くの他者とつながることでこそ得られるのだということを、忘れないようにしたい。
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- 03/20, 2012 |
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まとめwoネタ速suru, 03/22, 2012 -07:35
そもそも、エンターテイメントをはじめ、娯楽というものは、受け手が自分自身の価値観を肯定するために存在する。娯楽とは、そのための手段のようなものだ。作品を通じて私たちは、...
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